2008年06月10日

秋葉原の通り魔のこと

音楽三昧で幸せな毎日を送っていたのだが、また妙な事件が起きたな。

秋葉原で通り魔・・・。

秋葉原は俺がリアルに生まれ育った故郷である。
当日も鳥越の祭りの日で、ちょうど実家に遊びに行っていたところだった。

「いつ巻き込まれてもおかしくない」。本当に実感である。


事件発生から数日経過して、犯人の掲示板への書き込みやら、生い立ち、仕事の内容などが続々と報道されている。マスコミ各社も、社説やコラムでこの事件の裏側をなんとか「言葉」にしようとしているようだが、その大半は的外れな内容。「原因の解明を」とか言ったって、狂った人に原因もへったくれもないだろう。人を刺せる時点で、そいつは我々と同じ次元にはいないのだから。


そんな中で、中日新聞のコラム「中日春秋」はなかなか鋭いところを突いていると思う。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2008061002000089.html

殺す相手が「誰でも」よかったとは、つまり、男は、殺すべき「誰か」さえ持ち得なかった


ご明察、である。

この手の事件に原因があるとすれば、それは彼らが「敵」を認識する能力に欠けているということにほかならない。不遇な立場に置かれている人間は、えてして「世の中は俺を正当に評価していない」「会社が悪い」「政府はなにをやっとるのだ」といった、非常にマクロな怒りを抱きがちだ。だが、相手がマクロであるだけに、矮小な個人である彼らは具体的に戦う術を持てない。結果、怒りは発散されぬまま蓄積され、大抵はコミュニケーション能力も低い彼らのこと、誰にたしなめられることもなく、小さな脳内で増幅されるのである。

本来、彼らが憎悪している「社会」なんてものは、彼自身が属しているきわめてミクロな社会にすぎない。すなわち、せいぜい彼をとりまく「会社」「友人」「家族」といったところだ。だが、彼らは気の弱さも手伝って、自己を取り巻く身近な世界での「軋轢」を極端に嫌う。だから具体的な「ケンカ」に発展するような「身近な敵」を認めようとせず、より抽象的な「マクロな敵」に怒りをすりかえてしまう。

戦いようがない敵であれば、敗北もない。
自分はいつまでも戦っている気分で、どこまでも正義を気取っていられる。
そのことも、彼らが仮想敵を軌道修正できない要因になっているかもしれない。


独りよがりに敗北から逃げ続けているだけなら、別にさほど害はない。ただ、みっともないだけでね。けれど、増幅されて行き場を失った怒りは、やはりどこかで噴出するものなのだ。今回の事件だけでなく、「誰でもよかった」な無差別殺人の背景には、おそらくかなりの比率でこういった筋違いな怒りがあるのではないかと思う。


マクロな「世の中」と、それを構成する「各個人」は同一ではない。それなのに、彼は各個人達を攻撃してしまった挙げ句、マクロの代表たる国家権力に捕らわれ殺されるという末路をたどるわけだ。復讐を果たしたつもりでご満悦なのだろうが、はっきり言ってただのマヌケな人生である。ご両親が謝罪会見されたようだが、さぞ無念だろう。


--

「自分を評価しない社会」なら、そこから抜け出して別の「社会」に入れば解決する話だったりするのだ。これだけたくさん人間がいる以上、どんなオカシナ奴だって、絶対どこかには所属できるんである。悩みを抱えている人は、まず自分の正しい居場所を見つけた上で、あらためて自分の「敵」は誰なのか、それをよく考えるべきだ。


p.s.
事件で亡くなられた被害者及び遺族の方には、謹んでお悔やみを申し上げます。
ラベル:秋葉原 殺人
posted by elmo at 22:26| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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